昭和四十三年一月十日 月次祭の御教話


 昨日、ある方がお参りして来まして、お届けをされたんです。御本部参拝をさして頂きましてか、もう次から次と問題がございまして、それがざっとした問題じゃあない。本当に深刻な問題が次から次と重なってまいりました、とこうゆうのである。「それは問題にせずに修業で受けさせて頂かなきゃいけませんよ。寒中修業も始まっているのだから、寒中修業の中に、また余分にそうゆうような修業が出来るのだから有難い事ですよ。修業で受けにゃあいけませんよ。」と、言うて話した事です。
 これは私の実感なんです。私が本当に起きてくる事一切を修業と、それは食べ物が足りない事も、着物が着れない事も、暑いも寒いも、又はややこしい人間関係も、皆それを神様の御都合として修業として受けさせて頂くようになってからこの方の事を思い。修業はしておっても、その以前を思うてですねえ、本当に、あれを、例えば、つらかった事、苦しかった事、全てが修業であったと、修業で受ておったら、今頃は素晴らしいお徳を受けたと思うのです。
 ですから、まあようやく終戦からこっちの事はです、こちら自体が本当に火の玉のような修業精神でいっぱいでございますからねえ、もう日常生活の様々な問題、一切修業で受けてゆこうとゆう、所謂修業なんです。それを頂くようになって信心が身についてきたとゆうか、本当の信心が分かりだしてきた。神様の有難さが分かってきた。そうゆう私の体験からです、もう本当に日常生活のいろんな問題をです、難儀な問題とする事程、馬鹿らしい事はないですよ。それを本当に修業として受け抜かせて頂くところにお道の信心はある。
 この方の行は火や水の行ではない家業の行。その中に起きてくる、暑い事もあろう寒い事もあろう、腹の立つ事もあり、情けない思いをする事もあり、けれどもこれを全部御都合であり御神意であり、私に求められた修業であると分からしてもろうてです、それを修業として受ける火の玉のような精神が欲しい。お互い、そうゆう状態になりますと修業が楽しみになってくる。今から考えてみると、よう、あんな修業が出来たなあと思う。
 今日はしきりに、私は福岡で修業中の時分の事を思い出したんです。長女が六歳長男が四歳、まだ学校へ行く前でございました。遊びに連れてゆくと約束がしてあるが実行してないのです。もう本当に修業は考えてみますと、すごい修業が始まっている時でした。ある日、私はおかげで、福岡久留米間の切符だけは、宮崎増太郎さんとゆう方がおられますが、その方が株を持っておられる。それで、その株についておるところの切符を、いくらかお金を出して何年か借りてあった。ですから久留米区間だけは、いくら乗ってもただなんです。西鉄の電車だけですが、ですから、私が二人の子供に申してです、今日は福岡に連れてゆこう、電車に乗せてやろう、そのかわりに何も買うちゅうちゃあならんばい、お父さんは何も持っていかんとだけん。帰りには、それから岩田屋にも連れてゆこう。二人が喜びましてですねえ、遊びに連れて行ってもらうとゆうのですから。そのかわりに買うちゅうちゃあでけんよ、買うちゅうなら連れていかんと約束させてから、二人着物着替えさせといて、福岡まで行きました。春日原行きの電車ですから、もうほとんど空のような状態でした。もう二人が空の電車に乗って喜びますとですよねえ。それから春日原に着いたら、又福岡行きの電車に乗って岩田屋デパートへ、所謂本当の見物なんですよ。下から上に回って屋上へ参りました。
 今から考えてみますと、おかげであったなあと思うんですけれども、上には皆さん御承知のように馬があるでしょう。長男が、あの馬に乗ってよかろうと言うですもん。「乗るだけなら乗ってよかたい、しかし動かんばい、あの馬は。」十円入れれば動くんですけどねえ。岩田屋の屋上から福岡市内を見物さしてもろうて、動かない馬に乗って帰らしてもろうて、二人の子供達はお父さんと半日遊んだとゆう喜びでいっぱいでした。結局火の玉のような一切を修業として受けさせて頂いておる時の信心。そこには、もう子供達も一緒に、しかも楽しゅう出来ておるとゆう事です。今から考えてみますと、本当に忍びない事です。飴玉一つ買ってやるじゃなし、木馬に乗っても動く木馬じゃあない、金を入れんのですから。それだけで結構親と一緒に遊びに行ったと喜んでいるのです。
 ある時の月次祭でした。私は、信者時代から家で月次祭をさしてもろうておりました。でもお供えする物はない。御神酒すずの中にも御水、勿論水玉は水、下には食料品店で捨てようとしてあった沢庵を勿体ないと頂いてきた。それを所々切って美しい所だけ三宝の上に切り揃えさして頂いて御三宝一段。これも食料品店で捨てようとなさってあったのを勿体ないと頂いてきた。それは海茸の干したやつ、かびがいっぱい生えているんです。ですから、それを私が洗って、綺麗に干し上げて、そしてそれは干物としてお供え。野菜とゆうても他にございませんから、庭に畳一枚ばかりニラを作っていたんですけれども、そのニラがよくなるんですよ。もう子供達がです、塩で煮てあるだけなんですけれども、甘いね甘いね、とゆうて頂きました。もう、その時代です、取りもんがないもんですから、御水にずるちんを入れて、甘くして子供達のおやつでした。そのいっぱい生えておるニラを一台、とゆうような本当に腐った沢庵を切り揃えたり洗ったりする中に、一生懸命の思いを込めてのお祭りなんです。それでも、その当時、お月次祭とゆうと四、五人参って来よりました。秋永先生なんか、その一人です。そしてお祭りをさして頂きますと、もうとても有難い、もう思いいっぱい。そんなお祭りを仕えさして頂きよる時でした。神様から、お知らせを頂きました。「水づくし、本当に水づくしですよねえ。御神前のお供え物全部が水づくしですよねえ、水づくし、魚づくしになる迄は、離れられぬが神の心じゃ」とゆうようなものを頂きました。そうゆう修業さして頂いている時に、神様の思いの中には、どうゆうような思いがあったかとゆうとです、今お前が、あれも修業、これも修業、暑い事も寒い事も、それが本当に子供達に迄このような修業をさして相すまんのだけれども、子供達も楽しゅう一緒に修業について来てくれる。お前一人の修業じゃあない。子供達も修業ぞ、家内も修業ぞ、家族挙げて、その修業に突入して一家を挙げて火の玉のような修業をさして頂いておる。いやされておるけれどもです、神の思いとしてはです、この水づくしの月次祭が、今に、今に、魚づくしばっかりのおかげをやりたいのぞとゆう事が分かるでしょうが。ですから、これを修業として受けていなかったら、こうゆう結果になってこないのです。
 そこで昨日、お届けをされる、御本部参拝さして頂いて帰って参りましたら、もう次々と問題が待ち構えておる。しかも難しい問題ばかりが。「それはおかげ頂いたねえ。それは難儀と受けちゃならんよ。問題と思うちゃあならんよ。それを本当に修業と思いなさい。特に只今、寒中修業があっとる。だから、そうゆう寒中修業で、朝参りもさして頂いておるけれども、その朝参りの上に、もうひとつ修業さして頂いておるんだと、修業で受けなきゃあ馬鹿らしか。」そして、これは私が実感として、いつも思う事、私共が二十年このかた一切が修業であった。修業として頂きぬかせて頂いた。その信心修業をです、さして頂くとゆう、神様の本気で修業に取り組んでおる向こうの方には、どうゆう風なものがあるかとゆうと、今こそ水づくしだけれど、神の願い、神の思いとしては、魚づくしにしてやりたいばっかりなのだとゆう事。同時に私は思うのです、本当に根限りの修業をさして頂かなければならない。それは望んでするのではなくてです、日常生活に起きてくる、その問題を修業で取り組ませて頂いて、それを受けこなさせて頂くとゆう修業。それから逃げようとしてはいけない。
 今朝、御神前で西瓜が一切れ宙に浮いているんです。西瓜といやあ修業の事、水、火の行とゆう事。しかも宙に浮いておるとゆう事はですねえ、修業とゆうのは中途半端じゃあいけんとゆう事。修業とゆうのは、本気に、その気にならなければだめだ。よし今日一日のなかに、どのような問題が起きてきても、これをどっこい修業として受けさして頂きます。御神意として受けさして頂きますとゆう心なんです。それを受ける心の勇ましさに神様が動きなさらんはずがない。そして神様はですねえ、私共は先の事は分からんのだけれども、水づくしが魚づくしにしてやりたいのが神の、親の願いである。よくよく西瓜を見ますと種が入ってない、種無し西瓜。皆さんが西瓜を召し上がられる時、ほんとにこの西瓜に種がなかったら、さぞよかろうと思うような事はないですか。そうゆうような事ではおかげにならんです。せっかく皆さんが、ゆうなら水火の行に取り組んでおる。少しでも楽に、食べよいようにとゆうような心では修業は出来ません。その面倒くさい、そこが修業なんです。西瓜食べながら、この西瓜に種が無かったらとゆうような事ではつまらんと思うた。そして、私共二十年このかた、さして頂いてきた修業が、今もですけれども修業ぶりが違う。もう魚づくしどころか、御神酒づくしどころか、本当に勿体ないおかげの中に過ごさせて頂いておる。私共がです、どうゆうような問題が起きてまいりましても、あの時分の修業を思うたら勿体ないと思うです。これが素晴らしい。
 その方が言われるように、今度御本部から帰らして頂きまして、問題が蓄積しとる。しかもややこしい問題ばかりがです。おそらく、その問題の中には情ない腹の立つような思いをする事もございましょうけれども、その問題を、どっこいと修業で受けさせて頂くことこそ信心だと思う。その向こうには神様が魚づくしにしてやりたいとゆう思いが待ち受けている。同時に私共が、根限りの修業をさせて頂いておるとゆう事がです、水づくしが、おかげ頂いて魚づくしになったとゆうても私共がおかげ落とさんですむ。あの当時の事をと思うです。本当に、ここに十円の金があったら、けれども子供は私と一緒に修業してくれておる。行き掛けに約束してある。お父さんはお金はいっちょん持って行きよらんから、電車に乗るだけよと、デパートで見て回るだけよと。けれども動かんでも馬に乗ったんだから、それで満足さして帰らせて頂いたのですから、親も修業なら子供も修業なんだけれどもです、一家を挙げての火の玉のような修業の時だから、今から考えると大変な修業であったと思うけれども、ゆうなら子供達二人も満足して、今日はお父さんと半日遊んで回ったとゆう、満足しきって帰らして頂いております。
 そして、その時分の事を思い出してみます時です、ここでは家内に百円の金でも余分な金は持たせません。十円のお金でも、本当に割って使うように致します。その時分の事を思うたら勿体ない。出来るはずがない、そしてどのような難儀な問題に直面致しましてもです、あの時分の事を思やあ有難い、水づくしが魚づくしになっておる。この事を思うただけでも勿体ない。勿論この位の修業は当たり前として受けていけれるとゆう事が有難い。皆さんが本気に、こうして修業に取り組んでおられ、寒中修業、朝参りの修業に取り組んでおられる。と同時にです、日常生活に起きてくるところの修業、それはもっともっと大事なものです。これは私が体験さして頂いて二十年このかた、そうゆう修業さして頂いて、今日おかげを頂いておるが何十年間とゆう信心を頂いておる間に、おかげから終始修業であった事やら朝参りの修業を致しましたにしてもです、起きてくる事の一切を修業として受けていなかった事を、今から思うと本当に惜しいと思います。惜しい事にしてはいけません。本当に勿体ないです。毎日の中に自然の中から、私の回りに起きてくる一切の問題も事柄も暑いも寒いも、これは一切私に求め給う、これは切実な神様のおかげやりたいとゆう願いの修業でございますから、これをいよいよ実意丁寧に、その問題を修業として取り組まねば相済まん、勿体ない事であります。
 今日は、しきりに福岡での修業の時を思うんです。本当によう、おかげを受けてきたなあと思うのです。けれどもあの時、私が中途半端な修業であったら出来ていない事ばっかりでした。どのひと事をとりましてもですけれども、本当に頭から本腰入れて修業さして頂こうとゆう気になっておったから修業が出来たんだと、こう思うのです。どうぞ。